山梨県上野原市にあるふんどし山と丸山(まるやま)登りました。
東京都と山梨県の境界に連なる笹尾根の隣に立つ、名前のインパクト以上の出来事は何も起こらない素朴な里山です。付近にはかつて上野原と小菅村を結んでいた西原古道が通っており、昔ながらの山村の光景が今なお残る小集落が点在しています。
変な名前の里山を巡りつつ、ついでに笹尾根を越える道を歩いて来ました。
2023年11月12日に旅す。
ふんどし山。この一度聞いたら絶対に忘れなさそう名前をした山は、笹尾根上にある丸山のすぐ傍らにあります。笹尾根から派生した枝尾根上にある小ピークです。
国土地理院の2万5千分の1スケールの地形図には、そもそも山名が記載すらされていないくらいにマイナーな存在です。
この山のすぐ脇を西原古道と呼ばれるかつての街道が通っています。鶴峠を越えて上野原と小菅村を結んでいた道で、ほぼ同じルートである現在の山梨県道18号線が鶴川沿いの谷底にあるのに対して、西原古道は笹尾根の中腹付近を通っていました。
ピークを踏むわけでもない山道ですが、点在する山上の小集落を結んでいる昔ながらの趣を感じられる道です。
特に何かがあるわけでもないふんどし山に登頂した後は、笹尾根を越えて檜原村の数馬まで足を伸ばします。古道歩きと都県境越えを楽しんできた一日の記録です。
コース
日寄橋バス停から小棡(こゆずり)の集落を抜けてふんどし山に登頂します。その後は笹尾根の丸山へと登ります。下山は大羽根山を経由し、檜原村の数馬の湯へ。
マイナーな里山巡りをしつつ、温泉に向かって歩く理想的なコース取りの行程です。
1.ふんどし山登山 アプローチ編 鶴川沿いの静かなる里山を目指す
8時38分 JR上野原駅
先週の秋山二十六夜山に続いて、2週連続で上野原駅よりおはようございます。前回は上野原市の南側にある秋山川周辺の山を巡りましたが、本日は北側の鶴川流域にある山を目指します。
朝の時点からすでに、どんよりと曇った生憎の空模様です。本日は終日に渡りイマイチなお天気となる予報であったため、展望は皆無であると言うふんどし山に白羽の矢を立てた次第です。
8時50分発の鶴峠行きのバスに乗車します。乗客は登山者しかおらず、生憎な天気であるにもかかわらず、そこそこの乗車率でした。ちなみにこの鶴峠行きの便は11月末までの運行で、12月から3月までは冬期運休となります。
9時24分 日寄橋バス停に到着しました。案の定というか、このバス停で下車したのは私だけでした。他の乗客達は奈良倉山か三頭山辺りにでも登るのかな。
バス停から少しだけ元来た方へに戻り、この消防団の建物がある小道から入って行きます。身支度もそこそこに、9時30分に行動開始です。
2.閑静な山上集落の小棡と、謎の五右衛門山荘
最初からいきなりのコンクリート舗装の急坂が始まりました。前方を横切っているのが、山梨県と東京都との境界である笹尾根です。ふんどし山に登った後は、あの尾根を越える予定です。
11月も中旬になろうと言う時期にも関わらず、道端に花が咲いていました。コスモスではないようだけれど、これは一体何の花だろうか。
振り返って見た背後には、鶴川を挟んだ向かいにある権現山へと至る尾根がありました。右奥に見えているピークにアンテナらしきものが見えるので、恐らく雨降山だと思います。
道なりに進むと、大きくカーブしつつさらなる急勾配の道になりました。なんというか、谷沿いに無理やり詰め込んだ感が凄い道です。
カーブ地点の脇に名も無き滝が流れ落ちていました。もしかしたら名前はあるのかもしれないけれど、名前を記した立て看板などはありません。
進むにつれて、さらに道の傾斜度がきつくなって来ましたぞ。この道は小棡集落へ至る生活道路のはずなのですが、日常的にの上り下りするのはなかなかしんどそうな道です。基本的に自動車社会で、歩く人はほとんどいないのかもしれませんが。
小棡集落の入り口へと登って来ました。略図が掲げられていますが、かなりこじんまりとした小集落です。一押しのスポットはどうやら十二天神社であるらしく、ふんどし山についての記載はなにもありません。
これだけ珍しい名前をしているとなると、訪問者はそこそこいそうなものですが、日寄橋からふんどし山に登る登山者はあまりいないのでしょうか。
ここに来て頭上に青空が広がり始めました。もしかしてこのまま晴れてくれるのだろうかと期待が高まりましたが、すぐにまたどんより曇ってしまいました。
道なりに登って行くと、道幅がさらに狭くなったところで分岐が現れました。
このまま直進すると、最短距離で笹尾根上の丸山に至ります。ふんどし山に向かうには、左折して五右衛門山荘と書かれた方へ進みます。
分岐から進んだ地点から振り返って見た、小棡の集落の全容です。東京都から尾根を一つ挟んだだけの場所だとは思えないような、秘境めいた山上集落の光景が広がっていました。ああ、良いですねとても。
突き当りに1軒の家屋があり、軒先にいる犬が胡散臭げにこちらを眺めていました。これが五右衛門山荘なのかな。ふんどし山に向うには、ここから右の小道に入って行きます。
恐らくは農道だと思われる、さらに細くなった道が続いていました。相変わらずふんどし山の名前が書かれた道標などは一切なく、本当にここであってるのか少々不安になってきましたぞ。
舗装された小道を登りきると、五右衛門山荘と書かれた小屋が建っていました。どうやら先ほどの建物はただの民家であったようです。
小屋の離れに露天の五右衛門風呂がありました。なるほどこれが五右衛門山荘と言う名称の由来なのかな。
そもそもこの山荘は一般客向けの宿泊施設なのか、それとも個人の別荘かなにかなのか。はたまた地元の公民館的な施設なのか。気になって調べてみたのですが、驚くべきことにネット上でいくら検索しても何の情報も出て来ません。
せいぜいこの山荘の前を通ったと言う、ふんどし山の山行き記録が数件引っかかってくるくらいです。令和の時代になっても、公式のwebサイトも何もない一般客向けの宿泊施設と言うものが、果たして存在するものなのだろうか。
この山荘の詳細について何かご存知の方がいたら、是非ともお教え頂きたい。
「すごいぞ、ラピュタは本当にあるんだ」何故かラピュタと銘打たれている東屋もありました。蜘蛛の巣の跋扈具合からして、あまり使われてはいなさそうな雰囲気です。
ここにはPARKごえもんと言う名称が書かれています。いったい五右衛門山荘とは何の施設なんだ。気になるぞ。
3.ふんどし山登山 登頂編 西原古道の傍らにひっそと立つ静かな頂
五右衛門山荘を過ぎると、今度こそ道の舗装が無くなり山道へと入りました。見方によっては、ここからようやく登山開始であるとも言えます。
現在歩いているこの道は、西原(さいはら)古道と呼ばれる上野原と小菅村とを結んでいたかつての街道です。古道由来の登山道らしく道幅が広くて、所々に石垣なども残っていました。
現在の山梨県道18号線は川沿いの谷底を通っていますが、そうそう容易には橋梁をかけられなかった時代の街道は、こうして笹尾根の中腹付近を通っていました。
先ほど通り抜けて来た小棡の集落も、なぜわざわざこんな山間の傾斜地に集落が出来たのだろうかと不思議に思っていましたが、何のことは無い、かつての街道沿いにあったと言うだけの事です。
そろそろ紅葉前線が標高1,000メートル未満の里山まで下りてくる頃合いとあって、沿道の楓が良い感じに色づいていました。
ススキが生い茂った開けた場所が現れました。ここもかつては何らかの建物が建っていた事を思わせる地形です。
帳塚原と書かれた標識が立っていました。名前からして墓地だったのかな。
帳塚原を過ぎてからほどなく、丸山への分岐地点が現れました。ふんどし山へ向かうには、ここを直進します。
分岐を過ぎるなり、いきなり踏み跡が心許なくなりました。足元は半分気味で、土の感触柔らかさか加減してほとんど歩かれてはいないようです。ふんどし山を訪れる登山者は滅多にいないらしいことが、何となく察せられます。
崩落気味のトラバース地帯を抜けると、これ以上に無いくらいにわかりやすい峠地形が現れました。
笠松峠に到着しました。ふんどし山と笹尾根との間にある鞍部の峠です。この先へ進むと小棡の隣にある藤尾集落へと続いてます。
ここからふんどし山を往復します。国土地理院の地図にはそもそも道すら書かれてい無い場所ですが、尾根を忠実に辿れば良いだけなので道筋は明瞭明快です。
最高地点と思われる場所まで登って来ましたが、山頂標識などは見当りません。はて、事前の調査では意外と立派な標識が立っていたはずなのですが。もう少し先まで進んでみましょうか。
奥へ進むと、しっかりと標識が立っていました。よかったよかった。
10時20分 ふんどし山に登頂しました。別名で寺久保山とも言うらしい。2つある標識にそれぞれ異なる標高が記載されていますが、752メートルと書かれている方が正しい標高です。
せっかくふんどし山に登るのだから、ふんどしでも履いて来て記念撮影に臨むべきかとも考えましたが、思い直してやめておきました。
私はそういう芸風のキャラではないし、芸風云々以前に芸人ではありませんので。そもそも、ふんどし自体を持ってもいないし。
山頂に展望は一切なく、木々の隙間から僅かに笹尾根らしき山並みが見えていました。
この珍妙な山の名前について由来を調べて見たのですが、よくわかりません。登山道がT字型になっているからと言うちょっと無理のある説があるくらいで、定説と呼べるものは存在しないようです。
4.都県境の尾根上に立つ丸山を目指す
ふんどし山に登ると言う目標は無事に達成されました。ひとまずは丸山への分岐地点まで元来た道を引き返します。
ここふと、ふんどしを履くのではなく大根を持ってきて片手でかざしながら写真を撮れば良かった、などとしょうもないことを思いつきました。このネタがわかる人は、たぶん同世代人です。
いや失敗しました。次回訪問時には忘れずに大根を持ってくることにしましょう。・・・そもそも次回訪問はあるのか?
11時 丸山への分岐地点まで戻って来ました。それではこれより、笹尾根越えを敢行します。
何故わざわざ笹尾根を越えようとしているのかと言いますと、日寄橋バス停を通る上野原駅行きのバスは、10時57分の次は15時47分まで無いからです。
そんな訳で、次のバスを待っているよりは、笹尾根を越えて檜原村に抜ける方がはるかに早いです。檜原村側には、概ね1時間に1本の頻度でバスがあります。
笹尾根に取り付くなり、まるで奥多摩のような圧倒的杉の植林が出迎えてくれました。紅葉に期待していたのですが、この様子だと望みは薄そうです。
斜面が帯状に伐採されて視界が開けている場所がありました。防火帯と言う感じでもないし、送電鉄塔を立てる計画でもあった場所なのだろうか。
向かいに雨降山が見えていますが、山頂付近はガスに覆われてしまっていました。まあこれは予報の通りなので、特に落胆はありません。
小棡集落の入り口にあった看板にもかかれていた、十二天神社がありました。かつては西原街道をゆく旅人たちが参拝していたのだろうか。
十二天とは仏教における守護神のことでで、八方の方角に天地日月を加えたものをそれぞれが司どっています。
・・・と、いかにも元から知っていたかのようなしたり顔で解説しましたが、私もこの表札に書かれた内容を読んで初めて知りました。帝釈様の名を冠した山は全国各地で割とよく目にしますが、日が昇る東の神だったのですね。
せっかくなのでお参りもして行きましょう。屋根がトタン張りの建物なので、建物自体は比較的近年になってから建て直されたものであるようですが、しっかりと管理保全はされているようです。
格子戸の隙間から中を覗いてみると、小さなお社がありお供え物もしっかりとされていました。
十二天神社を過ぎると、いよいよ笹尾尾根に向かって大真面目に標高を上げ始めました。いっちょう気合を入れて行きましょう。
杉の植林帯を抜けて自然林の領域に入りましたが、残念ながら期待したほどには紅葉しておらず、まだ緑の葉が目立つです。最盛期はもう1週間後くらいか。
11時45分 コナラの丘と呼ばれる地点まで登って来ました。ここはピークではなく、尾根上にある肩のような空間です。
前方の視界が開けており、晴れていれば生藤山や陣馬山などが見えるはずですが、どんよりとしたガスに覆われていました。
コナラの丘からは傾斜が緩んで、一時の緩やかな尾根歩きとなりました。展望こそありませんが、雰囲気の良い広葉樹の森が広がっています。
コナラの丘に続いて、今度は山桜の丘と書かれた表札が掲げられていました。
当然今の季節に桜は咲いていませんが、おそらくこれが山桜かな。見上げる高さの巨木です。開花時期に訪れたら、さぞや壮観なことでしょう。
丸山に向かって最後の登りが始まりました。ラストスパートをかけて行きましょう。
標高が1,000メートルを超えるあたりまで登って来て、ようやく満足のいく紅葉を拝むことが出来ました。しかし曇り空だとイマイチですな。やはり紅葉は青空にこそ映えます。
ここまで来て、ついに登山道上にもガスがかり始めました。このまま虚無の世界へ突入かと思いましたが、ガスが掛かっていたのは一部だけだけで、すぐに抜けました。
まあガスっていようがいまいが、どのみち丸山に展望は一切ないのですけれどね。
笹尾根の稜線まで登って来ました。ここから先は、私自身過去に一度歩いたことのある領域となります。・・・丸山の周辺にはあまり印象が残ってはいませんが。
山頂が見て来ました。始めからわかってはいた事ですが、やはり地味です。
12時30分 丸山に登頂しました。笹尾根上に連なる小ピークの中では、比較的登る人の数が多いはずの山頂ですが、この日は誰もおらず貸し切りの状態でした。まあこの天気だしね。
5.笹尾根の北側に立つマイナーピーク大羽根山
先へ進みましょう。丸山の周辺は道が入り組んでいる上に、枯れ葉で踏み跡が埋まっており少々ルートがわかり難い状態でした。笹尾根沿いに進む道と、笛吹に向かって直接下山する道がとがあるので間違えないように注意を要します。
まあ別に、このまま下山しても良いといえば良いのですけれどね。
あとはひたすら尾根沿いに進むだけです。この尾根は最終的に三頭山にまで繋がっていますが、そこまでは行かずに途中から数馬へと下るつもりでいます。
尾根の南側は杉の植林化されていますが、北側には広葉樹からなる自然林がしっかりと残されていました。しかし残念ながらここでも紅葉の色付きはイマイチです。
2023年の夏は異常の暑さであったためか、色付きもせずにそのまま落葉してします葉が多いようです。今年は紅葉の外れ年でしたな。
12時40分 笛吹峠(うずしき)に到着しました。笛吹と言うのは檜原村側にある集落の名前です。
ここから下山しても良いのですが、本日の最終目的地である数馬の湯からは少しばかり遠い地点に下りてしまうので、もう少し先までこのまま笹尾根上を進みます。
遠目には馬頭尊なのかと思いましたが、よく見ると大日と刻まれた石が置かれていました。大日如来にまるわるものなのかな。
上野原町とかかれた古い道標もありました。上野原町は平成17年に秋山村と合併して、現在の上野原市となりました。この道標はそれ以前の時代に設置された物だと言う事です。
先ほど私は芸人ではないと言いましたが、そもそも私は一体何者なんでしょうかね。ここでいう何者と言うのは、自己紹介欄などで名乗るべき肩書は一体何なんだろうなと言う話です。ブロガー・・・なのか?
ブロガーとは読んで字のごとくブログを書いている人のことですが、同時にこの言葉にはどこか職業的な響きが感じられます。ブログによって何らかの収入を得ている人の事を示している言葉であるかのような。
そうなると私はそれに該当しません。ではブロガーでないのなら、一体何になるのだろうか。承認欲求に狂った異常限界中年男性とかか。
なぜ唐突にこんなことを考えているのかと言うと、わりと最近にSNSのダイレクトメールで「広告も貼らずに一体何をモチベーションにしてブログを書いているのですか?(若干意訳)」みたいな質問が飛んできたからです。
うっせーわと思って返事もしませんでしたが、ブログを書いている理由は、山に登ったり写真を撮ったり文章を書いたりするのが好きだからです。遊びとして、楽しいからやっているだけですよ。
そんな訳で、私が名乗るべき肩書はどうやら一つしかないようです。私は山が好きなだけのただのおっさんです。
貼られている写真とは一切無関係なことをつらつらと書いてしまいましたが、笹尾根縦走路の景色はあまり変わり映えもせずに地味なので、特に語るべきことはありません。
大羽根山方面への分岐地点まで歩いて来ました。この分岐からもう少し進んだ先に笹タワノ峰という小ピークがあるのですが、特に見所も無いので立ち寄らずに、このまま大羽根山へと進路を転じます。
笹尾根から派生した緩やかな勾配の尾根に沿って下ります。さほど歩く人が多いとは思えないルートですが、踏み跡は明瞭で歩きやす道です。
行き先も書かずに、ただ登山道とだけ書かれている道標はなかなか珍しい。登山道ではない作業道が幾重にも入り組んでいる山域ならではの表現か。
ここでも紅葉もせずに散ってしまった枯れ葉が目立ちます。ここで前方に少し展望が開けそうな予感です。
親切にシャッターポイントであると書かれた標識まで立っていました。ここで写真を撮りなさいとわざわざ示してしてくると言うのがまた、いかにも日本的であると言うか、思わず笑ってしまいました。
方角的には正面に三頭山が見えているはずですが、ここでもどんよりとしたガスに覆われていて頭の方は見えませんでした。本日のルートにおける、数少ない好展望地であることは間違いありません。
ここでも枯れ葉の堆積でだいぶ踏み跡が怪しくなって来ましたが、尾根を外さないようにゆるゆると下って行きます。
13時20分 大羽根山(おおはねやま)に登頂しました。山と名乗ってはいますが、尾根上にある小さなコブのようなピークです。
ここもかつては展望が開けて正面に御前山が見えていたらしいのですが、今ではすっかりと木々が成長し展望は失われてます。薄汚れて苔に覆われてしまった展望図だけが、ポツンと取り残されていました。
6.数馬の湯へと下山する
もうこの辺りから既に、私の頭は完全に温泉モードへと切り替わりました。数馬の湯を目指して、一路足早に下って行きます。
大羽根山から少し下ったところで、地面から水が染み出した湿地状の平坦地がありました。週にはベンチも整備されて、ちょとした水辺の休憩スポットになっています。
案内板によるとここはヌタ場であるとのことです。ヌタ場と言うのは野生動物がドロ浴びをする場所の事です。
それはつまるところ、クマやらイノシシやらのできることなら山中で遭遇したくはない面々に、バッタリと出くわす可能性が高い場所であるとも言えます。
ヌタ場を過ぎると、少しばかり急勾配の下りになりました。なんてことは無さそうな道ですが、地面にうず高く積もった枯れ葉によって登山道上にある石や木の根などの地面の凹凸が全く見えず、地味に神経を使います。
ここに来てまさかの青空が復活を遂げつつありました。出来れば山の上にいる間に晴れてほしかったのだけれどな。
最後の方はいかにも里山らしく、杉の植林で締めくくりとなりました。道の脇に珍しく現役らしい炭焼き小屋がありました。
現在ではせいぜいキャンプくらいでしか使われない炭ですが、明治時代の中頃まで炭焼きは檜原村における主要な産業でした。
江戸の人口は18世紀初頭の時点で既に100万人を超えていたと言われています。これは同時期のパリやロンドンよりも遥かに多く、東京はこの時代からすでに世界最大規模の都市でした。
江戸市中で消費される木炭の量は極めて膨大で、檜原村はその需要を賄うための重要な生産拠点の一つでした。檜原で生産された木炭は五日市へと出荷され、そこから五日市街道を通って江戸の各地へと運ばれていました。
木炭供給のための、大規模なサプライチェーンが構築されていたということですな。
眼下に檜原街道が見えて来ました。笹尾根越えは無事に終了です。
14時 浅間尾根登山口バス停到着しました。温泉には寄らずにこのまま真っすぐに帰るのであれば、ここで武蔵五日市駅行きのバスを待てばよいだけです。
温泉に入りたい人は、ここからもうひと道頑張って歩きましょう。徒歩でだいたい15~20分くらいの距離です。
14時15分 数馬温泉センターバス停まで歩いて来ました。次のバス時間を確認したところで温泉へと急行します。
数馬の湯はへーパー値が高めの強アルカリ性で、いわゆる美肌の湯です。肌がツルツルになります。残念ながらかけ流しではないので、若干塩素臭は強めです。
一風呂浴びてスッキリしたところで、武蔵五日市駅行きのバスに揺られて帰宅の途に着きました。
名前に興味をひかれて訪れたふんどし山でしたが、名前のインパクト以上の事は一切何も起こらない地味で静かなる里山でした。
純粋に登山の対象として見た時に、特にこれと言った魅力のある山ではありません。西原古道巡りをする際に、ついでに訪れるくらいが妥当な山であろうかと思います。
小棡集落を始めとした西原古道の沿線に連なる山上の集落には、独特の趣と魅力があります。今回はそのごく一部さらっと流しただけでしたが、いつか通しで歩いてみたいところです。大根を抱えて、いつかまた再訪します。
<コースタイム>
日寄橋バス停(9:30)-ふんどし山(10:25~10:45)-コナラの丘(11:45)-丸山(12:15~12:30)-笛吹峠(12:40)-大羽根山(13:20)-浅間尾根登山口バス停(14:00)-数馬の湯(14:15)
完
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
コメント
ドラクエ4コマ漫画劇場ですかね・・・ふんどし
電車で読んでいてふっと懐かしい記憶を思い出しました。
匿名さま
コメントをありがとうございます。
早速、同世代人が一人いたようですね。かなりシュールで画になりそうなので、次回訪問の機会があったら大根を装備して行きます。
自分は芸人ではないとか力説していなかったか?ブライの突っ込み役が熊さんにならない事を祈るばかりです。
ネタが合ってて良かった!
ネタの掲載元の割にはやたらと認知されているような気のするふんどし。
それはともかく、数馬に降りるのであれば竜神の滝もお勧めです。
浅間尾根登山口に下ったのであれば訪問しても良かったかもしれません。
また機会があれば、蛇の湯温泉たから荘の日帰り温泉も良きです。
U-leafさま
コメントをありがとうございます。
私はあのふんどしネタをリアルタイムで見ていた世代のほぼど真ん中なので、今でも鮮明に覚えています。
ちなみに、竜神の滝は檜原村で滝巡りをしたときの過去記事に一度登場しています。
奥多摩には 五日市に「ためぐそ山」というのがあるのは知っていましたが、ふんどし山があるとは思いもよりませんでした。また面白い山名の山があったら、教えてください。
面白いリポートでした。
ひるかぜさま
コメントを頂きましてありがとうございます。
どちらも名前だけの出オチ感が満載の素朴な山でした。こうした思わず二度見しそうなるヘンな名前の山は全国各地にまだまだ埋没しているでしょうから、折を見て発掘して行きたいと思います。
はじめまして
写真がきれいなのでお気に入りに入れて拝見していました。
ふんどし山には数年前に行きました。笹尾根、西原古道が好きで割とちょくちょく行っています。特に冬から春にかけての鶴川沿いの集落が好きで約60年歩いています。現在75歳で昔より山行回数は減りましたが、今でも低山歩きには行っています。
笹尾根はいいですね。私は田和峠の壊れたベンチでのランチタイム、昼寝が好きです。ラーメン、鍋焼きうどんなどを作って食べ、2時間近く昼寝をするのが定番です。いつも平日なのでほとんど登山者には会いませんが、たまに行き会う登山者の方とお話しするのが好きです。
またお邪魔します。失礼しました。
おっちゃんさま
コメントを頂きましてありがとうございます。
60年前となると私はまだ生まれてすらもいませんが、西原古道が現役の道として使用されていたにはそれよりさらに昔の事なので、当時からすでに今とあまり変わらない静かな場所だったのでしょうね。
そう考えると、この道に刻まれている歴史の重みが良くわかります。