東京都奥多摩町のウォーキングコース、奥多摩むかしみちを歩いて来ました。
現在の国道411号(青梅街道)が出来る以前に、氷川から奥多摩の奥地へと続いていた古道をたどる、全長10kmほどのコースです。ルートの大半は現役の道と被っていますが、道中には歴史ある古道であることを偲ばせる、いくつかの史跡が残されています。
日原鍾乳洞の見物と合わせて、奥多摩を満喫する散歩をしてきました。
2019年7月21日に旅す。
前回に引き続き、ボツにしてお蔵入りさせていた過去の記録です。今回は東京都奥多摩町のウォーキングコースである、奥多摩むかしみちを歩いて来た時のお話です。
奥多摩むかしみちとは、読んで字のごとく奥多摩の昔の道に沿って整備されたコースです。
現在のJR奥多摩駅から奥多摩湖へと向かう青梅街道は、とても山奥の道とは思えないようなかなり高規格な作りをしています。橋梁とトンネルをフルに駆使し、急峻な地形を無視するかのようにほぼ一直線に続いています。
この現在の青梅街道はもともと、小河内ダムの建設工事を行うために作られた工事用道路を前身としています。それでは、ダムが作られる以前からあったのは、どのような道だったのでしょうか。
かつての青梅街道は、山中を蛇行して流れる多摩川の、急峻な崖に沿って築かれていました。
今でこそ電車とバスで気軽に訪れることの出来る奥多摩ですが、大昔の奥多摩、中でもとりわけ氷川より先の奥地と言うのは、行くだけでも一苦労な秘境めいた山間部でありました。
奥多摩むかしみちは、物理的にも心情的にも今よりもずっと遠い場所であったころの、奥多摩の雰囲気を知ることの出来るウォーキングコースといえます。
奥多摩むかしみちのコースをを歩くだけであれば、大体3~4時間もあればこと足ります。それだけでは少々物足りない気もしたので、ついでに日原鍾乳洞も見物してきました。
私にしては珍しく、登山抜きで奥多摩を楽しんできた一日の記録です。
コースマップにつきましては、奥多摩観光協会の公式サイトからPDFファイルをダウンロードできるので、そちらを参照してください。
1.出発前に少し涼むため、日原鍾乳洞へ寄り道する
8時25分 JR奥多摩駅
毎度おなじみのホリデー快速奥多摩号に乗ってやってまいりました。真夏の季節にもなれば、流石に少しは空いているのかと思いきや、ほぼ満員の大盛況でした。
概ね標高2,000メートル未満の山が連なる奥多摩は、真夏に登るのは少々ツライと思うのですが。。
お目当ての奥多摩むかしみちへと真っすぐ向かうのであれば、駅から直接歩いて行けばよく、バスに乗る必要はありません。
しかし本日は、本題に入る前に少しばかり寄り道をして行きます。ちょうど良い機会なので、前々から一度行ってみたい思いつつもなかなか訪問できずにいた、日原鍾乳洞に寄って行きます。
川苔山は相変わらずの人気で大盛況です。臨時便まで出て、川乗橋バス停の前には凄い人だかりが出来ていました。
30分少々の乗車時間で、終点の東日原バス停へとやって来ました。
目的地の日原鍾乳洞最寄りとなるバス停は、ここからさらに先にある鍾乳洞バス停です。ですが、この先の道は極めて幅員が狭く、渋滞緩和のため土日のバス便はここ東日原までしか乗り入れてくれません。
鍾乳洞までは片道2kmほどの道のりです。まあ、たいした距離ではありませんな。
沿道では、まだアジサイが枯れずに頑張っていました。もう7月も下旬だと言うのに、意外と花期の長い花です。
何度見ても凄いインパクトがあります。こんなナリをしていますが、裏側から登ることが出来ます。
鷹ノ巣山への登山口を見送り奥へと進みます。道路の幅が目に見えて狭くなりました。ここをバスが通ろうとしている時に対向車が来たら、確かに目も当てられないような渋滞が発生しそうです。
落石なんて、注意していてもどうにか出来るものではないし、危険地帯を素早く通り抜けるのが唯一の正解です。
道中に幽水栃の雫なる名水を汲める場所があります。冷たくておいしい。
鍾乳洞バス停まで歩いて来ました。平日であらばここまでバスに乗ってこれます。
日原川の本流からは外れて、支流の沢に沿って奥へと進みます。周囲には人家などは一切なく、谷に囲われた山奥です。
東日原から30分ほど歩いて、ようやく鍾乳洞の入り口までやって来ました。
2.涼しいを通り越して寒かった日原鍾乳洞
入場料は800円です。洞内には照明があるのでライトは必要ありません。また、天井が比較的高いので、ヘルメットも特に必要はないと思います。
長沢背稜を源頭とする沢の水を集めたこの小川谷は、夏であってもかなりの水量です。轟音を立て流れ落ちていました。
見上げる高さのこの岸壁は、石灰岩でできています。鍾乳洞が形成されるのは、カルスト地形とよばれる石灰岩質の地層に限られます。
入口に立った時点で、中から冷たい冷風が流れ出てきました。洞内の平均気温は摂氏11度であるとのことです。もしかしなくても、半袖一枚では寒いかもしれません。
その危惧は、入洞するなり的中しました。さささ、寒い。
羽織るものなど何も用意してきてはいなかったので、対処方法はただひたすら我慢するの一択です。
内部はこのようになっております。一筆書きで巡れるように順路が設定されてます。
割と複雑な立体交差になっているので、間違えないように案内に従って進みます。
僅かな照明の光を糧にして、コケが育っていました。すさまじい生命力ですね。
日原鍾乳洞の中でも最も象徴的な場所と言えば、やはりこの賽の河原と呼ばれる空間です。時間の経過で色の変わる照明によるライトアップが行われており、幻想的な雰囲気の空間となっています。
この場所で弘法大師が修行をしたと言う伝説が残っているのだそうです。しかしこの弘法大師と言う人物は、日本中のあるゆる場所に伝説が残っておりますね。
階段上には縁結びの観音様が安置されています。まあ、一人で来ている私には何のご利益も無いけれどね!
観音様の居る場所から見下ろすとこんな感じです。かなり広い空間であることがお分かりいただけるかと。
従来から知られていた旧洞の他に、昭和37年になって新たに発見されたと言う新洞があります。旧洞と新洞は洞内で繋がっていますが、かなりの高低差があります。
この新洞の方が、いかにも鍾乳洞らしい鍾乳石が並ぶ光景が広がっています。しかし残念ながら、環境保全のため金網越しにか見ることが出来ません。
せめて一部でもいいから、金網を切り開いたのぞき穴を作ってくれると嬉しいのですけれどね。
およそ1時間ほで散策を終えました。外に出るなり今度は死ぬほど暑い。そして、カメラのレンズが結露してしまいました。
元来た道を引き返します。もう既に忘れそうになっておりますが、本日の主題はあくまで奥多摩むかしみちを歩くことにあります。鍾乳洞見物はあくまでオマケです。
東日原バス停まで戻って来ました。ここからバスに乗り、奥多摩駅へと戻ります。
3.小河内線の廃線跡と共に歩む古の道
11時55分 もう間もなく正午になろうとかと言う時間になって、ようやくスタート地点の奥多摩駅へと戻って来ました。やけに長いオマケでありました。
主題の奥多摩むかしみちへと歩みを進めましょう。まずは青梅街道に沿って道なりに進みます。
この一見何の変哲もない杉の木は、氷川三本杉と呼ばれている名物です。何が珍しいのかと言うと、
根の部分は一本なのに、その先で綺麗に3本に分かれています。二股の杉ならば比較的よく見にすることもありますが、三つ又でかつこれほどの巨木なのは相当珍しいのではないでしょうか。
駅前から5分ほど歩いた場所に、東京都内では最も西の地点にあると言うコンビニがあります。この先にもうコンビニは無いので、買い出しはここで済ませておきましょう。
入口までやって来ました。ここから奥多摩湖まで、おおよそ10kmの道のりとなります。張り切って行ってみよう。
分岐地点には、このように必ず道標が整備されているので、その導きに従って進みます。
スタートからいきなりのエグイ登り坂です。奥多摩湖に向かって多摩川を遡って行くことになるため、奥多摩むかしみちは基本的に最後までずっと登り勾配が続きます。
カラスアゲハが、その大きな図体に似合わず、器用に花の先に止まっていました。
坂を登りきると、道の舗装が無くなり砂利道となりました。思っていたよりも歩道らしい歩道です。
背後には氷川の裏山である愛宕山が、まるでオデキのようなシルエットでもって佇んでいました。恐ろしく急勾配な階段があることで有名な場所です。
道のすぐ脇にレールが残っているのが見えます。これは東京都水道局小河内線と呼ばれる路線の跡で、かつて小河内ダムの建築資材(主にセメント)を運ぶ目的で作られた鉄道です。
この線路は、奥多摩駅から小河内ダム手前の水根までずっと続いています。
この奥多摩むかしみちは思った以上にしっかりとした整備がされており、このように石畳舗装が施さている場所もあります。・・・表面が濡れていると、油でも撒いたのかと思うくらい良く滑りますがね。
橋梁の上にまで樹木が育ちつつありますが、レールはしっかりと残されています。
ダムの建設工事が終了した後、この線路は一時的に西武鉄道に譲渡されていました。西武拝島線から青梅線へと乗り入れ運転を行い、奥多摩湖行きの観光列車を走らせる計画があったそうです。
トンネルもそのまま残っていました。
現在の奥多摩駅は当時、氷川駅と呼ばれていました。もしこの西武の計画が実現していれば、小河内ダムの手前に作られる駅が奥多摩駅と言う名称になっていたのかもしれません。
しかしこの計画は、結局実現することはありませんでした。水源地を観光地化することはまかりと通らんと言う、国からの横やりがあったとかなんとか。
もし完成していたら、この場所をホリデー快速が颯爽と走り抜けて行く姿を見ることが出来たのかもしれませんね。
ほどなく現役の道路と合流しました。奥多摩むかしみちの大半は現用の道と重なっており、純粋な歩道部分はわずかです。
集落の中に出ました。おそらくは現在の青梅街道が出来るより以前からずっと、人々の営みがある場所なのでしょう。
このモノレールいいですね。我が家にも欲しいくらいです。家庭用モノレールと言うのは、どこで販売されているのでしょうか。
道標の導きに従いどんどん進みます。例え地図を持っていなくても、特に迷う要素はないかと思います。
トイレまで完備しています。かなりのお金をかけて整備されている印象です。
再び人家の無い山の中へと逆戻りです。この道がかつては主要な幹線道路だったと言うのだから、奥多摩の山深さがよく分かろうと言うものです。
やけに派手な色合いの蝶々がいました。これもカラスアゲハなのですかね。
再び人家のある場所へと辿り着きました。桧村(ひむら)の集落です。
暫しの間、町の中を歩きます。公式マップによると、ここは迷いやすいポイントであるとこのこと。
集落を抜けると、まともや周囲に何もない山道へと戻りました。法面を覆うコケが凄いことになっておりますな。それだけ湿気の多い場所だという事でしょうか。
不動の上滝と呼ばれる場所にやって来ました。ここにもトイレがあります。
これがその不動の上滝です。少々奥まった場所にあるうえ特に道もないので、目の前で鑑賞するには薮をかき分ける必要があります。
まあなんと言ったらよいのか。これと言って特筆すべき点のない、ごく普通の滝です。
気を取り直して行動を再開しましょう。奥多摩むかしみちにトンネルや橋梁などは一切なく、地形を忠実になぞる様にクネクネと続いています。
遠くに見えるこの青い橋は、青梅街道の境橋です。現道の方は、地形を完全に無視して真っすぐにひかれているのが良くわかります。
小河内線にはいつの間にかすっかりと引き離されており、遥か頭上高くにありました。
谷沿いのごくわずかに平地に、寄り添うようにして人家が密集しています。車で移動しているとなかなか気づかない、奥多摩の原風景です。
4.惣岳の険しき谷を抜けて、小河内ダムへ
舗装されているのは人家のある場所だけで、再び未舗装の道となりました。
さきほど遠くに見えた境橋の上を通過します。御前山の登山口があるバス停なので、ここで乗り降りした経験のある人は多いのではないでしょうか。
白髭神社へとやって来ました。正確な創建年代は不明ですが、江戸時代にはすでにこの場所にあったと言う歴史ある神社です。
この神社の最大の見所は、白髭の大岩と呼ばれる巨大な石灰岩の一枚岩です。まるで神社の頭上に覆いかぶさるかのように、大きくハングしてせり出しています。
これは地中の断層がそのまま地表に露出したものであり、学術的に大変珍しく貴重なものなのだそうです。白髭神社は、この岩そのものをご神体としています。
道端にこちらの岩は、弁慶の腕抜き岩と呼ばれています。この弁慶と言う人物もまた、弘法大師並みに日本全国あちこちに伝承の類が残っています。
この穴が、弁慶が引き抜いた穴でしょうか。なんと言ったらよいのか。岩に空いたただの穴です。
もう何年前の事になるのか思い出せもしませんが、私は初めてこの奥多摩と言う地を訪れた時に、奥多摩は怖いと言う強い印象を持ちました。
奥多摩にある谷は、何れも深く非常に急峻です。そして圧倒的に森が濃い。この景観が、一度谷底に迷い込んだら二度と戻れないのではないかと言う、ある種の本能的恐怖心を喚起させます
何度も通って慣れてくる内に、いつの間にかすっかりと忘れてしまっていたこの奥多摩が怖いと言う感覚を、ひさしぶりに思い出しました。
この付近は多摩川の川幅が特に狭くなっている一帯で、惣岳渓谷と呼ばれています。樹木に遮られて水面は良く見えませんが、ゴウゴウと激しい水音が聞こえてきます。
この惣岳渓谷を眺めることの出来るスポットはしっかりと存在します。それがこのしだくら橋です。
この吊り橋はだいぶ年季が入っている上に、定員を訂正された形跡があります。訂正後の定員が僅か二人と言うのは、この橋の安全性が相当信用ならない状態になりつつあるという事です。
まあ、それでも渡りますがね。何故ならばそこに橋があるからです。
橋を渡った先には、ただ杉の植林が広がっているだけで、特に何もありません。もともと林業用の橋なのでしょう。
ちょうど橋の真下が天然のダムのような状態になっており、上流側は至って穏やかな流れです。
馬の水飲み場の跡などもあります。かつてはこの谷合の険路を、荷駄運びの馬が往来していたのでしょう。昔の奥多摩は、生活必需品を運ぶだけでも一苦労する場所でありました。
そんな苦労をしてまでこの奥多摩の地に多くの人が住み着いていたのは、奥多摩が炭焼きの生産地であったからでもあります。
都市ガスなど存在しなかった明治の初期頃まで、炭火は煮炊きを行う上で必須となる、極めて重要な品目でありました。
茶屋が一軒営業していました。奥多摩むかしみちに、茶屋の経営が成り立つほどの客がいるようには思えませんが、意外と繁盛していました。実は人気のウォーキングコースだったのか。
やはり定員は2名に訂正されています。恐らくは、架けられた年代もしだくら橋とほぼ同じなのだろうと思われます。
進むにつれて、道がどんどんと頼りなくなってきました。本当にここがメインルートだったのでしょうか。
大量のアンカーボルトを打ち付けた、巨大な法面が現れました。この上を青梅街道が通っています。
ここまでで青梅街道に脱出することも出来ますが、ウォーキングコースはもう少しだけ続いているので、最後まで歩きます。
車道とは袂を分かち、完全なる山道になりました。本日は登山靴ではなくスニーカーを履いてきてしまっているいので、これは少々想定外です。
木の隙間から、小河内ダムの堤体がいつの間にか目の前にあるのが見えました。
沿道に咲くヤマユリが、強烈な芳香を辺りに漂わせていました。
好みにもよるのでしょうけれど、これだけ香りが強烈だと少々下品に感じられて、私はヤマユリがあまり好きではありません。
今度ははっきりと小河内ダムの全容が見えました。湖の底に沈んでしまった今となってはわりませんが、かつてこの付近には僅かながらに平地が存在しており、そこに小河内の集落がありました。
またもや山道に突入します。一応は手すりがあるものの、歩道と呼ぶには少々心許ない山道です。
水根の余水吐ゲートが目の前に見えました。ちなみに奥多摩湖は滅多に満水にはならないダム湖で、この余水吐も試験以外ではほとんど使われたことがないそうです。
昨年の台風19号襲来時には、何年かぶりにここから緊急放水が行われたとのことです。
この水根が奥多摩むかしみちのゴールです。それは単純に、この先の古道はすべて奥多摩湖に沈んでしまっているからでしょう。
水根バス停まで道なりに歩いて下ります。六ツ石山から下山してきた場合に通ることになる道です。
15時15分 水根バス停に到着しました。奥多摩駅を出てから3時間15分程のお散歩でありました。
ここでバスを待っても良いのですが、奥多摩湖バス停がすぐそこにあるので、そこで待つことにします。
奥多摩湖バス停に到着しました。時間帯にもよりますが、バスはおおむね1時間に1~2本あります。
奥多摩湖上空は、どんよりとした曇り空です。かつてはこの水面の下にも、ここまで歩いてきたのと同様の道が続いていたのでしょう。
さほどの待ち時間もなくなくやって来たバスへと乗り込み、帰宅の途に付きました。
今回の記録は天気がイマイチだったのと、その翌週に立山&剱岳に登ってしまい、そちらの記事を早く書きたいと言うとばっちりのような理由で、長らくお蔵入りとなっていたものでした。
古の奥多摩の街道ロマンに浸るお散歩はこれで終了です。
奥多摩むかしみちには、道中に特に危険な場所もなく、安心安全に歩くことの出来るお散歩道です。ただ、奥多摩の歴史にまったく興味も関心ない人には、ただひたすら山道を歩くだけの少々退屈なコースであるかもしれません。かつてこの地にどんな人たちが住み、どんなふうに暮らしていたのか。それらに想いを馳せながら歩くとで、このコースの魅力はずっと上昇します。
知っているようで意外と知らない、この奥多摩と言う地の奥深さを体験しに、むかしみちの散策へと出かけてみてはいかがでしょうか。
コメント
オオツキさん、こんにちは。コメントするのはひさしぶりになります。私も初めて奥多摩を訪れたとき、ここが東京都とは思えぬ山深さに、恐ろしさを感じていました。しかし怖いもの見たさという気持ちもあるので、その奥多摩の奥深さをお散歩しながら安全に体験できそうな、この奥多摩むかしみちの今回の記事を読んで興味を持ちました。状況が落ち着いてきたら、いつか歩いてみたいと思っています。この記事がお蔵入りから脱出できたことはうれしいことでした(笑)
しょうへい様
コメントをありがとうございます。
楽しんでいただけたようで、ハードディスクの片隅から引っ張り出してきた甲斐がありました。
奥多摩は怖いですよね。奥多摩湖に向かう青梅街道のトンネルも、中は素堀りでコンクリを吹き付けただけだったりしますし、とんでもない山奥に来てしまったと言う印象をいつも抱きます。ちょっとした冒険気分を味わいに行くのには良い場所だと思います。